イースターは赦しの祝日 (ご興味のない方はお読みにならない様お願い申し上げます)

 4月24日はイースターです。キリスト教会が一番最初に祝った日はクリスマスではなくイースターです。「永遠の命」の為に蘇られた主の復活を感謝しつつ、罪の救いを祝う祝日です。全ての人は周りから赦されながら生かされてます。赦しは人にとり 最も大切で、最も難しい事。イースターは 人を最後まで前向きに生かし、永遠の生命へ、復活へ、道を示し、生命を燃焼させる力を与えるのだそうです。「永遠の命」とは愛、謙虚、柔和、寛容、義、真理、善行、希望、智慧、仁徳、などの高徳です。
 徳はこの世で答えが出るものではなく 評価されず、共にすすむ者も少なく、自分で悩み求めるものです。聖書にも「狭い門」の教えとして「狭い門から入りなさい.滅びに通ずる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多い。しかし、命に通ずる門はなんと狭く、その道も細い事か。それを見いだす者は少ない。」(新約、マタイ7)とあります。
 古代ギリシャの有名な知者ソクラテス(前470〜399頃) もその頃 富と共に台頭してきた権威ある高慢なソフィスト達の中で「自分には知らない事があるということを知っている」という「無知の知」を説き、又それは知を学び知りたいという「知への愛」につながるとしましたが、同時に 彼の抜きん出た「知」は 自称知者と呼ばれる人達の無知を暴く事となり、「惑わす者」として 裁判にかけられ、自ら毒杯を仰ぎ 死を選びました。同じような頃、インドではお釈迦さま(本名ゴータマ シッダルダ前563〜483)、中国では孔子(前552〜479)が人生の苦悩を直視し、徳高い人間になる為の道を説き,現代に至るまで多くの人々の心を救済しリードする哲学を残されました。孔子も世間に受け入れられなく悩む弟子を「徳、孤ならず。必ず、隣あり。」と慰めました。
人生という旅路の道を説く哲学に国境、時代、年代などの境界はありません。

 マザーテレサのお言葉にも
「先進国にも一つの貧しさがあります。それは、お互い、心を赦していない貧しさ、精神的貧困、寂しさ、愛の欠如からくる貧しさです。愛の欠如こそ今日における最悪の病です。愛はこの世で最も偉大な贈り物。他人を咎める資格など私たちにあるのでしょうか。人を非難する前に自分の心の中を見つめる義務があります。私たちは平和の為に働く義務があり、その為には心の柔和と謙遜という徳を学ばなければなりません。」とあります。

 聖書の中では愛、希望、信仰、徳、赦しについて多くの教えがあると思います。赦しには愛が不可欠です。愛、最も清らかなエネルギー、そのものが赦しなのかもしれません。
こちらもあまりにも有名なパウロのコリント信徒への手紙です。その題名も「愛」です。

「そこで 私はあなた方に最高の道を教えます。。。。。
 たとえ 山を動かす程の完全な信仰をもっていようとも,愛がなければ無に等しい。
 全財産を貧しい人々の為に使いつくそうとも誇ろうとして死に引き渡そうとも、愛がな ければ私に何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、たかぶらない。礼を失せ
 ず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。愛は決して滅びない。。。。」
 
 仏教の教えでいうと「慈愛」です。「渇愛」ではありません。お釈迦様は自我への渇愛、執着こそが人生の苦の原因とし、「諸行無常」(全ては移り変わる),「諸法無我」(不変のものは存在しない)、と説きました。この「無常、無我」への無知「無明」をなくし「慈愛」、「智慧」(真偽識別を見極める心)、に満たされた平安な心になる為には他者の利を思い、日々の生活で八正道(正しく見る、考える,話す、行う,生活する,努力する、気遣う、禅定する)を実践し、徳を積む事が大切とされました。「自灯明」という教えは自分の心を高め、自分の光を清らかに強くして、自分で見極めなさいという尊い教えです。
 哲学者トマスアクイナスは「愛こそは聖霊本来の名」と言い、聖霊とは善意、誠実、親
切、平和、赦し、関心、自立、柔和、沈黙、美しく清らかな善行、言葉、形。。。と目に見る事はできないが現実に働く愛の力と多くの方々がおっしゃっておられます。

いつも多くの方々に赦されて今まで何とか生きてきた私ですが イースターはその赦
しを確信できる祝日との事です。私の罪をお赦し下さい。と毎日手を合わせるものの。。。

イースターという祝日を謙虚な気持ちで迎え、悔い改め、赦される罪とは。。。
これはある牧師様に教えて頂いたお話です。
日本語の漢字で「罪」とは四つの非と書きます。非行、非礼、非情、非道だそうです。包み隠すという意味もあり、秘め事、隠し事、人には言えない汚れた卑しい事だそうです。英語では「SIN」と言います。切れ切れに切れていくというのが原語だそうですが、神と切れ、人と切れ、内なるもう一人の自分からも切れるのだそうです。切れるから結果は分裂、滅び、迷い、争いです。聖書の中では自分を絶対者のごとく振る舞い(己の腹を神として。。。フィリピ3/19)、他者を裁き、自己絶対化、隣人を愛さず、相手を受け入れず,切り捨てていく在り方だそうです。ドキッとする水野源三氏の詩も教えて頂きました。
「私がいる。
 ナザレのイエスを十字架につけよ(高徳) と要求した人・許可した人・執行した人
 それらの中に私がいる。」

いい訳にはなりますが、ギリシャ神話などでは悪も人間の特性として寛容にうけとめられています。悪を知って初めて善も認識されると思います。ただ、人は自分の判断で隣人を裁きがちです。自分の知は狭く判断が正しくもないのに恐ろしい事です。

「人を裁くな。あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ,自分の量る秤で量られる。あな
たは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かってあなたの目からおが屑をとらせてくださいとどうしていえようか。自分の目に丸太があるではないか。まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見える様になって兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(新約マタイ、7)

「人を罪人だと決めるな。そうすればあなたも罪人だと決められる事はない。
赦しなさい。そうすれば赦される。与えなさい。そうすれば与えられる。」新約 ルカ6

 本当にいつも反省の連続です。赦されて又、スタートできるなんて本当に有り難い事です。仏教では「懺悔、さんげ」です。赦しは生きていく上で希望を与えてくれますね。但し、何をやっても良い、この祝日に依存しても良い訳ではなく、痛みと犠牲を伴っての赦しの重さをわきまえた時、赦され,その赦しに謙虚でなければと思います。

「自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。」マタイ12

 仲間をゆるさない者に対して、イエス様は「7回どころか7の70倍赦しなさい。。。。。。あなたがたの一人一人が心から兄弟を赦さないのなら天の父もあなたがたに同じ様になさるであろう。」マタイ18「そして神の国はあなたたちの心にある。」ルカ17柔和に仲良く、 「富は天に積みなさい。あなたの富のあるところに心もあるのだ。」ルカ12 と教え 最も重要な事として「心を尽くし、精神を尽くし,力を尽くして主を愛しなさい。隣人を自分の様に愛しなさい」と道を示して下さっておられます。

 3月11日の大震災以降、深い悲しみと不安にあった私達の心、いいえ、世界中の方々が私たち日本人を隣人、友達と思い、共に悲しみ、復興を応援して下さっています。これ程までにと「愛」に感動するばかりです。被災者ではない私もどれだけ多くの海外の友人達から、電話やメールで「家を用意してあるからおいで。心はいつでもあなたたちに開いているよ。日本人はすごいね。一緒に団結しよう。何かできる事ある?」と励まされたかわかりません。
私が尊敬する作家、曽野綾子さんは「人は本当に悲しみの中で出会うものだ。神と出会うのも多くの場合、そういう時である。悲しみの中でこそ人は本来の人間の心に立ち返る.現世は修羅場である。もしこの世で光をみたいのなら、それらを悉く愛するしかない」と。
この世の全ての事は完璧なものはなく、光と闇、善と悪、歓と悲、美と醜。。。の様に必ず両面があります。闇がなければ光も認識できません。正負、対立と矛盾も含め存在していると思います。その中で人生を旅するのですから,迷い、失敗の連続です。
 あまりにも大きな天災、悲劇でこれから多くの苦難はありますが、仮に 起きてしまった大震災を悲、災、涙、絶望、闇、とするならば 一日も早く 笑顔、幸、希望、光、前進を感じ、確信できる様に祈りと共に努力する小さな一員でありたいと願います。そして苦難の中の被災者、犠牲者の皆様に私たちは謙虚、忍耐、寛容、希望、持戒、忘故利他という徳をどれ程見せて戴き、愛を与えて戴いたか計りしれません。
これから日本、世界を背負っていく若い次世代の為にも、(本当に若者達は一生懸命 働きたいと思い頑張っています)こんな時こそ先人に学び、他者を思い、平和の為に働き、日本を復興させていく小さなお手伝いがしたいです。

堅苦しいお話と感じられた方にはお詫び申しあげます。