as it is
as it is
Copyright (c) 2003 by Koichiro Kaya all rights reserved.
1954年東京都台東区生まれ。 Google Map のストリートビューで生まれた家を見ようとしたら、道が細いせいかストリートビューの範囲外だった。個人情報保護の問題等いろいろあるようだが、なかなか行けない町並みを見られるのはとても便利だよな。Google の航空写真の対象にはなっていたので眺めてみると、小さい頃遊んだ玉姫公園、母校の石浜小学校、いまは廃校になった蓬萊中学校がハッキリ写っていた。生まれた家は駐車場になっていて車が2台停まっている。こんなに狭い土地だったんだな。Welcomeヘージの弟と写っている写真は、この家の玄関で撮ったもの、戸も柱も全部木だもんね。懐かしい。
About Me
Stats
name Koichiro Kaya
location Yokohama, Japan
job Office worker
subjects Talent development
中学を卒業して、すぐ就職したい気持ちが強かった。家族と相談し結局高校に進学した。技術を身につけたくて、工業高校を選んだ。都立蔵前工業には 機械科、建築科、設備工業科、電気科があったんだけど、なぜか電気科を選んだ。なんでそうしたのかは記憶にない。3年生の電子の授業でなぜかFOTRANのプログラミングを習った。なんで電子の授業でプログラミングなのか解らないけど、仙波先生の好みかな…でもそのプログラミングがとても楽しくて、ソフトウエア開発の仕事がしたいなと思った。就職活動をした昭和48年(1973年)は高卒は「金の卵」けっこう求人があった、まだ世間にはコンピュータが浸透しておらず、もちろんパソコンなんてない時代。システム開発の求人も3、4社しかなく、とりあえず全社面接と思っていたら1社目で内定をもらった。「いいや。この会社に入ろ」と安易に決定、それがいまの会社の前進「日本情報サービス」。荻窪の寮に入り、池袋の会社に通勤。コンピュータのオペレーションを3交代でやっていた。「IBM360」 ビルのワンフロワを占有する大きさ、でもメモリーは64K。いまの携帯電話のメモリーよりはるかに小さい。ハードウエア技術の進歩はすごいな。それからプログラマ、システムエンジニア、プロジェクトリーダを担当した。昭和61年(1986年)に人材育成が重要との会社の方針で「研修部」ができた。その研修部に移動になり、エンジニアの教育を担当する。いつまでも「物作りをしたい」と現場復帰を希望したがかなえられず。以降20年近く人材育成に関わる仕事を続けている。