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 殉教とは「証し」ということばと同じです。このたび初めて日本で列福式が行われる188名の殉教者は、すべて処刑されてその魂を神様に捧げました。江戸で処刑された二人は特に有名で、代表格としてのペトロ岐部神父(逆さ穴吊り)と原主水(もんど)(火あぶり)もそうでした
 シドッティ師はいわゆる処刑によって命を捧げられたのではありませんが、江戸のサンタマリア教会創建に大きな力を与えてくださったキリシタン研究家の内山善一先生は、シドッティ師の死も他の方々に劣らぬ証しの殉教であると述べておられます。
 その理由として『一つは、シドッティ師を取り調べた新井白石は、師の処遇について@国外追放、A囚人として獄につなぎおく、B処刑する、三案を建議し、結果として第二案が幕府の決定(判決)になった。
 その二として、牢番の長助、お春に洗礼を授けた咎によって詰牢に入れられ、半年後そこで亡くなった。』
 しかも、最期まで長助と春が信仰に留まるよう、声をあげていたことはその命をもって証ししたことです。たとえ牢死と言えども、立派な殉教に違いないといわれています。
 華々しい姿を示すこともありましょうが、シドッティ師のように、隠れたところにおいて、その場における神様のみ旨を実践する証しもあります。